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「待て、このガキ!」
賑やかな昼下がりの東市に、突然怒声が響き渡る。私、空也はその声で光と闇の瞑想から目覚めることになった。あれは東市で干魚の商いをしている鄽(いちくら=店)の主、権三の声だ。あの荒っぽく図太い声はあの人しかおらぬだろう。
「今日という今日は逃がさねえぞ、この死穢童子が!」

死穢童子。ああ、そうか・・・・・・

わたしはふと、その童子のことを思い出した。それはここ何日か前から東市で話題になっている童子のことだ。市に現れては鄽の品物を何度もひそかに盗み取っていくという、盗人童子。市人とその管理者である市司は、これまで何度もその童子を捕まえようと試みた。しかし童子はその小さい体を雑踏の中に紛れこませて身を隠し、くわえてかなりすばしっこいためになかなか捕まえられず、みな困り果てていたところだ。

〈死穢童子〉という呼び名は、ある時偶然その姿を見た人が、童子のあまりに汚い身なりからそう呼んだことが始まりらしい。汚い身なりをしている上に、今にも死にそうな人相も出ている。こうしたことからその子は不浄なるものと見なされ、人々から〈死穢童子〉と呼ばれるようになったのだ。

しかし・・・・・・な。

死穢童子とは、なんともひどい名前をつけるものだ。そもそも死の穢れとは、死体や不完全な死体に触れることで起こる穢れのことをいうのではないか?まだ死んでもいないのに、その子にそんな名前をつけて蔑視するとは。人間とは時にひどいことをするものよ。

「なに!?死穢童子が捕まった?」
「どれどれ」
物思いにふけっていると、権三の鄽のまわりに次々と人が集まってくるのが見えた。俺たちの手をさんざん煩わせてきた穢れ童子がついに捕まった。それを知った人々が、その童子の姿を一目見ようと次々に集まってきているのだ。

今の世には〈穢れ〉として忌み避けられている出来事がたくさんある。人や動物(馬・羊・牛・犬・豚・鶏)がもたらす死の穢れと出産の穢れ。そして家が火災にみまわれる穢れなど。それらはみな、浄らかならざる穢れたものとみなされ、人々から忌み避けられているのだ。

「要するに、それは貴族たちが神々を恐れているからさ」

そう教えてくれたのは、とある智者だった。ある日、私が市で乞食行をしている時のことだ。ふらりと現れたその智者は、私の真向かいに座して問答する中で、〈穢れ〉の根源が貴族たちの神々に対する怖れにあることを教えてくれたのだ。
「もちろん、穢れの根源にはその出来事に対する恐れや嫌悪もあるだろう。死や出産、焼亡が不浄とされるのはおそらくそこからきている。だが・・・・」
智者は、鋭い眼光を私に向けてこう言った。

「穢れが怖れられる一番の理由は、貴族たちが神々の怒りを怖れているからさ」

穢れ、それは天皇の居する内裏に参内し、あるいは神を祭る行事などに携わる貴族たちが最も忌避するものでもある。一度穢れに触れてしまうと、その貴族は参内することは許されず、清浄の身に戻るまで朝廷の行事や神を祭る行事に携われない。もし穢れを天皇の居所である内裏に持ち込んだり、あるいは神の領域である神社等で穢れが発生すると、それに怒った神々によって天皇が病となったり、旱魃などの災害が引き起こされるとされているからだ。だから、特に貴族たちは穢れに対して異常なまでに敏感にならざるを得ないのさ。

そして今や、その穢れの恐怖は庶民たちにまで伝染し、肥大化を遂げている。都で起こる火事・洪水・疫病の流行、治安の悪化による群盗の横行と殺人という出来事を通してな。

燃え盛る炎(火事・災害のイメージ)
私は智者の言葉を一つ一つ思い返しながら、〈死穢童子〉を見物しようと東市の権三の鄽に集まってきている人々に目を向ける。
「おい、見ろよあれ、きったねえガキだぜ」
「この前より死相がひどくなってるんじゃないか」
「うえ、気持ちわりい」

人々は今まさに、混迷の都で煩悩という悪魔にとりつかれて生きているのだ。

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〈穢れ〉などという観念の本質は、結局〈死への嫌悪〉や〈神々への恐れ〉といった、不安定な社会を生きる中で私たちが生み出した煩い悩みの感情に過ぎない。よってそんなものは元々実体はなく、どこにも存在しないものなのだ。

だが人々はそれに気づかず、荒廃した世の中で穢れの観念を自らの中でどんどん、どんどん肥大化させて、その妄念に囚われていく。そしてその結果、見た目だけで人を人とも思わずに、〈穢れたもの〉と判断し、人間以下のものに貶めていく。あるいは病に罹り死が近くなれば〈死穢〉がそこに充満することを、または伝染することを恐れ、病人を家などの共同体から追放することも普通に行われているのだという。

〈死穢〉に対する恐れという煩い悩みに囚われて、弱き者を次々と迫害してゆく。なんと言うか、これもまた人間の愚かさというものよ。

「こんなところに来るなよな!」
「おい、誰かはやく追い出せ!」
死穢童子にかけられる言葉は、悪口雑言の嵐ばかりで慈悲の言葉の一つもない。ここ、東市の中でも物が売り買いされる市屋地区は、市場の守護神たる市姫神社が鎮座する境内と呼べる場所でもある。だから人々が穢れに対し過敏になるのは当然かもしれない。しかし、童子の立場を考えてみればいたたまれない気持ちになるのも事実だ。昨今の京の都では、火事や鴨川の洪水、地震に疫病が多発し、多くの人が路上に投げ出されて死に絶えている。あるいは仕えていた主人が政治闘争などで没落し、生き延びるために盗人になる者もいると聞く。童子もその中の一人かもしれない。そうだとすると、なにも好き好んで盗みをはたらいているわけではなかろう。生き延びるためにやむにやまれずそうしているのかもしれないのだ。

明日をも知れぬ闇の中、迷い苦しみの世界の中を彷徨い続ける人がいる。それなのに、人々は、そんな苦しみの渦中を生きるものに対し、情けをかけることはせず、素知らぬ顔で侮蔑の言葉を投げかける。

つながることを拒否して、人と人の関係性を無惨にも断絶させてしまっている。それが荒れ果てた世の、今の人々のありさまだ。

やれやれ、しかたがない。

私は傍らにある物を入れるための鉢を手にしてすくっと立ちあがり、目の前の破盆の上にある少量の食べ物を鉢の中に入れて、童子を囲んでいる群衆の中に割って入っていった。
「失礼、何のさわぎかな?」
「おう、これはこれは、念仏坊主の空也どのではありませぬか」
群衆の中にいた一人の男が、これまた私を蔑むような眼を向けて、仰々しくそう言ってきた。この男、何度かこの市で見かけたことがある。その身なりから察するに、おそらくはどこぞの家に仕える侍(貴族に仕え、身辺警護や雑役に従事する身分の低い男)であろう。背が高く、筋骨たくましい身体に直垂(ひたたれ)を着て梨打の烏帽子をかぶり、無精ひげの生えた顔をこちらに向けている(太刀は帯びていないが、それは市内の平安を保つために帯剣をして市に入ることが禁じられているからだろう)。
「お念仏でガキの弔いでもするおつもりかな」
どっと周囲に笑が起こる。
「そいつはいいや。おい坊主、そのガキをさっさと弔ってくれよ。穢くてかなわねえや」
誰かがそうはやし立てた。

念仏、それは今、人々の間では死んだものの霊を鎮めて弔う意味で用いられている。そのため、念仏は死の穢れを連想させるものとして人々の間では忌み嫌われているのだ。しかし本当はちがう。南無阿弥陀仏の念仏は、死霊の弔いのためだけのものではない。その本質は、苦しみを生きる人々の魂を救うことにこそある。日々大変な思いをしている人々を救うために念仏はあるのだ。しかし、今はそれを説明している時ではない。私はさらに群衆をかきわけて前に出てみると、その童子の姿が見えた。

「第3楽章 空也の慈悲なる子守り唄―だからいっしょに歩いていこう―」へと続く。

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