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そんな姿が私にははっきりと見える。独り独りのこの世での歩みが、やがてすべてと繋がってゆき、ありのままの〈すでに〉そこにあるつながりの世界を生み出してゆく。その様相が、私にははっきりと見える。そしてその大きな命の繋がりの中で、この私も生かされているのだ。
わが偉大なる師、阿弥陀仏よ。だからこそ私はあなたの御名を称えよう。あなたの教えてくれたこと、あなたが私に教えてくれた「一切皆空」の真理は、確かな真実であったことを、心の底から讃える故に。京の都の東市、その雑踏の只中で、薦(こも)を廻らしそこに坐し、眼前に乞食用の破盆を設け、穏やかに食を乞いながら、私はその名を称えよう。
「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」
南無とは信じ任せること、南無阿弥陀仏とは、限りない弥陀の光の中に、その身を委ねて生きること。私はただただひたすらに、「空」の真理に身を委ねよう。「空」の真理にこの身をすべてなげうとう。
私は今、口に任せてただひたすらに、「南無阿弥陀仏」と間髪入れず称え続ける。その時に、阿弥陀仏様は声となり、吐息となって私の前に姿を現す。形なき形をとってはいるけれど、念珠のごとき私の声に従って、あなたは私の眼前に、その姿を現して下さる。だからこそ、京の市中は阿弥陀仏様の教えが説かれる道場なのである。
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「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」
「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」
ここは西方極楽浄土、弥陀のおわします極楽浄土、弥陀のおわします極楽京都。阿弥陀仏様が示される、「空」の教えにこの身を委ね、私は浄土に生まれ変わる。極楽浄土に往生する。
私はすべてを捨て去って、共にこの今を生きている。私は静かにその場所で、京の市中で「南無阿弥陀仏」と称え続ける。「空」の教えをその身に宿す者として、阿弥陀仏様の使いとして、市に身を売る乞食僧、沙弥空也として口に任せて称え続ける。
コーーン・・・・・コーーン・・・・・と叩きながら、私は口に称え続ける。
すべてを捨てて己を忘れ、誰かに尽くしてゆくために。
そのために、私は都に還ってきた。
天慶元年(九三八)京の都平安京の東市、私は今日もここにいる。
ここで念仏を称え続ける。
「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」
第1遊行(完)
この記事を書いた人
じゅうべい(Jubei)
みなさんこんにちは。今日も元気がとまらない地球人、じゅうべいです。好きなことは遊ぶこと(漫画に映画、音楽(Jロック等)にカフェ巡り)です。
よろしくお願いします。