たくさんの人で賑わう様子

京の都平安京の東市。そこではあらゆるもの、あらゆる人が、互いに多様な関係性の中、あるがままに命を支え合っている。そこに生きる独り独りが、この世の救済に励む菩薩として、あるがままに己を忘れ他者のために尽くしている。そこにはもはや何の差別も区別もない。皆平等に今を生きる菩薩なのだ。

菩薩

そんな姿が私にははっきりと見える。独り独りのこの世での歩みが、やがてすべてと繋がってゆき、ありのままの〈すでに〉そこにある繋がりの世界を生み出してゆく。その様相が、私にははっきりと見える。そしてその大きな命の繋がりの中で、この私も生かされているのだ。

私がそうであるように、われらは決して独りではない。すべてのわれらは実に多様な関係性の中で生かされている。その繋がりの中で、誰もがあるがままに己を忘れ、他者に尽くす菩薩として、善い行いを積み重ね続けているのだ。東市での人々の活動がそうであるように。

わが偉大なる師、阿弥陀仏よ。だからこそ私はあなたの御名を称えよう。あなたの教えてくれたこと、あなたが私に教えてくれた「一切皆空」の真理は、確かな真実であったことを、心の底から讃える故に。京の都の東市、その雑踏の中、薦を廻らしそこに坐し、眼前に乞食用の鉢を置き、穏やかに食を乞いながら、私はその名を称えよう。

「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」

南無とは信じ任せること、南無阿弥陀仏とは、限りない弥陀の光の中に、その身を委ねて生きること。私はただただひたすらに、「空」の真理に身を委ねよう。「空」の真理にこの身をすべてなげうとう。

この世に存在するものは、もともと固定的実体はない。実に様々な関係性、実に様々な原因と条件が重なり重なって、ものは成立する故に。その関係性のただ中で、われらは忘己利他の菩薩となる。

私は今、口に任せてただひたすらに、「南無阿弥陀仏」と間髪入れず称え続ける。その時に、阿弥陀仏様は声となり、吐息となって私の前に姿を現す。形なき形をとってはいるけれど、念珠のごとき私の声に従って、あなたは私の眼前に、その姿を現して下さる。だからこそ、京の市中は阿弥陀仏様の教えが説かれる道場なのである。

空也の画像

「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」

私はすべてを捨て去ろう。あなたの教えに従って。私はすべてを捨て去ろう。空の世界に念仏する自己、浄土を願い求める自己、智慧も愚痴も差別区別も善悪境界も、貴賤上下の道理をも、諸宗の悟りをも捨て去る。私は今、まさにすべてを徹底的に捨て切って、心は極楽に同化し、空・無相の三昧に達する。

「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」

ここは西方極楽浄土、弥陀のおわします極楽浄土、弥陀のおわします極楽京都。阿弥陀仏様が示される、「空」の教えにこの身を委ね、私は浄土に生まれ変わる。極楽浄土に往生する。

私はすべてを捨て去って、共にこの今を生きている。私は静かにその場所で、京の市中で「南無阿弥陀仏」と称え続ける。「空」の教えをその身に宿す者として、阿弥陀仏様の使いとして、市に身を売る乞食僧、沙弥空也として口に任せて称え続ける。身につけたるは鹿皮の衣、手に持ちたるは鹿角の杖、首に金鼓を吊り下げて、コーーン・・・・・コーーン・・・・・と叩きながら、私は口に称え続ける。

すべてを捨てて己を忘れ、誰かに尽くしてゆくために。
そのために、私は都に還ってきた。
天慶元年(938)京の都平安京の東市、私は今日もここにいる。
ここで念仏を称え続ける。

「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」

第1遊行(完)

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