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後編:阿弥陀仏の光

―念仏はすべてのわれらを救うためにあるのだ―

上人(しょうにん)様は表情穏やかに、東市で念仏について聞いてきた人にこのように答えられたのだという。

「南無」とは信じ委ねること、
「南無阿弥陀仏」とは、限りない弥陀の光の中にその身を委ねて生きること。

阿弥陀仏様の教えに、その身をすべてを委ねることをいうのだと。

われらは皆、本来、一人一人かけがえのない価値がある。なぜなら、すべての私たちは皆平等にこの世の救済に励む者なのだから。実に多様な関係性の中で、あらゆる階層の上下の区別を超えて、それぞれの立ち位置で、それぞれの場所で、ただひたすらに誰かのために尽くしている。誰かのために行動している。差別も区別もすべてを捨てて。

そうしてお互いを支え生きているのが、私たち人間なのだよ。

阿弥陀仏の画像

阿弥陀仏様はいつでも、その教えをわれらに示して下さっている。

私たち人間とは何なのか。この世の中でどのように生きてゆけばいい存在なのか。それを示して下さっている。だからこそ、私は差別も区別も智慧も何もかもすべてを捨てて、その教えに身を委ねて生きるのだ。

その誓いの言葉が、「南無阿弥陀仏」なのだよ。

一度でも「南無阿弥陀仏」と称えれば、誰でも極楽に生まれ変わることができる。
「南無阿弥陀仏」と称えれば、阿弥陀仏様は必ず、すべてのわれらを極楽にすくいとってくださる。誰一人、捨てることなく平等に。
だからこそ、もう二度と地獄などの迷いの世界を輪のように廻って生きる必要もなくなるのだ。

「でもよ、俺が仕えている主人は、極楽に生まれ変わるには仏像を造ったり、お寺を造ったり、写経したりしなきゃいけないと言ってたぜ、それはどうなんだい?」
「確かに、それも間違ってはいない。仏像を造ったりお寺を造ったりするのも、極楽に生まれ変わるための手段の一つなのだから」
「手段の一つ?」
「そうだ。極楽に生まれ変わるには、他にもいろいろな手段があるのだよ。その手段の中に、念仏も含まれているのだ。だから、一度でも口に南無阿弥陀仏と称えれば、必ずわれらは極楽に生まれ変わることができるのだよ。どんな人でも、必ず」

その話を聞いた人は、いたく感動したそうだ。

こんな自分でも生きる意味や価値がある。こんな自分でも救われる。

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その教えが自分の心に深く染み渡ったのだとか。
それからというもの、人が人を呼び、上人様の話を聞こうとだんだん人が集まってくるようになってきたのだという。

上人様はその度に、一人一人に合わせた立場に立って念仏を称え、その意味を伝えていった。人々が上人様に食べ物をお布施して、そのお礼に上人様が教えを説く。あるいは逆に上人様が教えを説いて、人々が食べ物をお布施する。
その際、上人様はお布施される物は何でも有り難く頂くそうだ。しかし決して必要以上に物を受け取ることはなく、得る物があれば病者や貧者に与えるのだという。自らは必要最小限の分だけをわずかに頂いて。

今では通常の〈銭〉を介しての物の売り買いと違い、そこでは〈念仏の教え〉を介して精神的な恵みと物質的な恵みを与えあう関係が成り立っているのだとか。

―念仏は今や、死んだ者の霊を鎮め、弔うためのものだけではありません。すべての私たちに生きる意味や価値を与え、救い出してくれるものとして称えられつつあるのです―

お邑はそう言っていた。

だからこそ、人々は上人様のもとに集っているのだという。念仏の教えに触れることで不安な心を取り除き、安心安楽を得ようとするために。初めのうちは、こやつは治安を乱すまいかと目を光らせていた市司も、次第に何も言わなくなっていったのだとか。上人の念仏は逆に人々に安心と安楽を与えている。むしろ、治安の維持に一役買っているとみているからではないか、というのがお邑の推測だった。治安の乱れは人の心が生み出す煩いや悩みというものから生まれるのだから。

「こちらです、さあ」
俺は今、お邑に促されて雑踏の中を進んで行き、その上人様のところへ向かっている。
しばらく進んで行くと、市の雑踏の中に人だかりができているのが見えた。その場に立っている人もいれば、地べたに座っている人もいる。種々様々な人が、そこに集まっていたのだ。
「お邑、あの人だかりは?」
「どうやら今日もたくさんの人々が、上人様のお話を聞きにいらしているようですね」
俺はいよいよ、その人に対面しようとしているのだった。

その人、阿弥陀の市聖(いちのひじり)、空也上人に。

〈第2楽章〉(完)

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