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前編:市聖(いちのひじり)の阿弥陀念仏

「さあ、着きました」
俺、辰巳はその日、お邑に連れられて京の都の東市に来ていた。

青空の下、賑わう人々-min

青い空の下で、心地よく穏やかな風が頬をなでる。今日も実に様々な人が行き交い、売り買いを通じそれぞれの今を刻んでいる。それぞれの立ち位置で、それぞれの場所で、今を生きている確かな証をこの大地に刻んでいる。その中を、俺はお邑とともに並んで歩き、その上人(しょうにん)様のもとへ向かっていた。


東市、そこは市司(いちのつかさ)という朝廷から任命された役人が管理する官営の市場だ。都で生活する人々にとっては、その生活を支える大切な基盤ともなっている。いま俺たちが生活拠点にしている西鴻臚館からそう遠くない場所にあるために、比較的行き来もしやすい。この市は月の前半(十五日まで)まで営まれ、正午に始まって日没とともに太鼓が三度鳴らされて閉じられる。

東市は、市屋地区と呼ばれる一町(一二〇メートル四方)ほどの広さを持つ区画の中に五十一もの店舗が並び、米・塩・油・干魚・海藻など、様々な商品が売り買いされる。人々はそこで銭を用いて物を買い、必要なものを調達するのだ。

ちなみに、いま都に住む庶民の大半は、貴族たちの私邸や朝廷の諸官司において従者として雇われている。また、都に住む老年もしくは幼年の庶民たちの多くは、さまざまなかたちで貴族のもとで働く人々によって養われているという。東市にはこのような庶民たちと貴族たちとが行き交い、階層を問わず様々な人々が出入りしているのだ。

そんな東市の雑踏の中で、その上人様は市の人々を前に念仏を称え、法を説いているのだという。だから阿弥陀聖、市聖(いちのひじり)とも呼ばれていた。

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―だが、人の前で妄りに法を説くのは市の治安を乱すことにならないのか?―

俺はその話を聞いた時、お邑にその疑問を尋ねてみた。
今は昔の話だが、越後国(新潟県)の出身で越優婆夷(こしのうばい)と呼ばれていた女が、市で妄りに罪福を説いて百姓を眩惑させたという罪で、本国に送り返される、という話を、俺は人づてに聞いたことがある。東市では、人々が集まり行き交う巷として、市中での治安を乱す行動は市司や検非違使(けびいし)によって厳しく阻止されているのだ。

市で念仏を唱え、法を説くのは人々を眩惑させる罪にはならないのか。

すると、お邑は笑顔でこう答えた。
「確かに、最初東市で念仏を称えていた頃、上人様は人々から異様な目で見られていたと言っておりました」

そもそも人々の間では、
阿弥陀念仏は他人の死の穢れを攘い、
その死霊を鎮めることと深く結びついていた。

念仏によって浄土に導かれる死霊-min


さまよう死霊を浄土に導き阿弥陀仏にまみえることができるように願いを込めて唱えるもの、それが念仏なのだ。そのため、阿弥陀念仏は死の穢れを連想させるものとして人々の間では忌み嫌われていたのである。

「ですから最初は、人々も上人様に心無い言葉をかけたり、唾をはきかけたり石を投げたりで、大変だったそうです」
しかしそれでも、上人様は口に念仏を称え続けたのだという。市の雑踏のただ中で、薦(こも)を廻らしそこに坐し、眼前に乞食用の破盆を置き、穏やかに食を乞いながら、ただひたすらに、口に念仏を称え続けたのだという。

「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」と。

阿弥陀仏の画像


何度バカにしても、何度石を投げても一切動じることはない。ただひたすらに穏やかに、阿弥陀念仏を称え続ける。そんな上人様の姿に、人々もいつしか慣れていったのだという。いや、何とも穏やかで、不思議な雰囲気をまとった僧侶に、人々は知らず知らず安心の念を抱いていたのかもしれない。

そんなことが続いたある日のことだ。念仏を称え続ける上人様に、人が声をかけてきた。
「あんたはなぜいつも念仏を唱えているんだ。念仏は死んだ者のためのものだろう?」と。すると上人様は穏やかに首を振り、このように答えたのだという。

―ちがう。念仏はすべてのわれらを救うためにあるのだ―

〈後編に続く〉

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