第1楽章 阿弥陀仏様はそこにいる―後編―
投稿日:2023年09月14日投稿者:じゅうべい(Jubei)
カテゴリー:第11遊行 阿弥陀念仏の光―穏やかな温もり 明かりが灯される― , 平安仏教聖伝―阿弥陀聖(ひじり)空也編―
adsense4
後編:穏やかで、強く、温かいつながりの中で
ありがとう、お邑(おゆう)。
俺を助けてくれて、支えてくれて、本当にありがとう。
そう思っているのは、おそらく俺、辰巳だけじゃない。鴻臚館で生活するすべての俺たちが思っていることだろう。白地に薄紫の模様のはいった衣を着た女、お邑は貧困や病に苦しむ俺たちのために、本当によくしてくれた。何よりもあんな慈悲に包まれた女は、そうはいない。どんな時でも、区別も差別もなく俺たちのことを看病し、そして時に食べ物も与えてくれる。
そしてそんなお邑を快く手伝っているのが、妹のレンだ。お邑が妹のように大切に想っている童女、レン。髪の毛を後ろで結ってまとめている小さい童女で、その肌は白く輝き、頬に少し赤みがさしている。年は八つといったところだろうか。レンもまた、俺たちの看病とお世話をやさしくしてくれる童女だった。
―俺は〈死の穢れ〉を恐れられて世の中から見捨てられた。
あんたたちはそんな俺が怖くないのか?―
一度お邑にそう聞いてみたことがある。すると彼女はこう言ったのだ。
お邑によると、そもそも〈穢れ〉観念の発生は、政(まつりごと)を行う貴族たちが神々の怒りを恐れていることに起因しているのだという。
だからこそ、特に貴族たちは穢れに対して異常なまでに敏感にならざるを得ない。
神々の怒りに対する恐れ。それが〈穢れ〉観念を生み出す煩いや悩みのもとになっている。そのことを俺はそのとき初めて知った。お邑によれば、京中に貧者や病者が大勢いるのも、一つには貴族たちが〈死の穢れ〉を恐れていることにあるのだという。
かつて俺は病を理由に貴族の家を追い出され、他にもそんな病者や貧者を路上で目にしたことがあったが、その理由もお邑の話を聞いてようやく合点がいった。
adsense2
ですが私たちは、神々を祀る貴族の方々とは異なる立場にいます。
だからこそ、できることがある。私はそう思うのです。
彼女たちは捨てていた。神への恐れも穢れへの恐れも、余計なものはすべて捨てて生きているように思えた。区別も差別もすべてを捨てて、誰であろうと関係なく手を差し伸べる。穢れを恐れられて蔑視され、怖れられている俺たちすべてに安心を与えるために、彼女たちは生きている。
そんな彼女たちの温かく、やさしい態度と雰囲気に包まれて過ごすうちに、俺たちも少しずつ、次第に変わり始めていた。お互いがお互いを思いやるようになっていったのだ。
そして俺は思うのだ。それはただのやさしさではない。ただのつながりではない、と。そこにあるのは、阿弥陀念仏を介してつながる、穏やかで、それでいて強く、温かいつながりなのだ。
阿弥陀仏様は、いつでも今ここで私たちを見守っていてくださっている。
そして必ず私たちを極楽浄土へと導いて下さるのです。
「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」
市聖(いちのひじり)・阿弥陀聖の上人(しょうにん)様、
その人はそう呼ばれていた。
〈第1楽章〉(完)
この記事を書いた人
じゅうべい(Jubei)
みなさんこんにちは。今日も元気がとまらない地球人、じゅうべいです。好きなことは遊ぶこと(漫画に映画、音楽(Jロック等)にカフェ巡り)です。
よろしくお願いします。