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後編:穏やかで、強く、温かいつながりの中で

ありがとう、お邑(おゆう)。
俺を助けてくれて、支えてくれて、本当にありがとう。

そう思っているのは、おそらく俺、辰巳だけじゃない。鴻臚館で生活するすべての俺たちが思っていることだろう。白地に薄紫の模様のはいった衣を着た女、お邑は貧困や病に苦しむ俺たちのために、本当によくしてくれた。何よりもあんな慈悲に包まれた女は、そうはいない。どんな時でも、区別も差別もなく俺たちのことを看病し、そして時に食べ物も与えてくれる。

手と手が触れ合うイメージ

そしてそんなお邑を快く手伝っているのが、妹のレンだ。お邑が妹のように大切に想っている童女、レン。髪の毛を後ろで結ってまとめている小さい童女で、その肌は白く輝き、頬に少し赤みがさしている。年は八つといったところだろうか。レンもまた、俺たちの看病とお世話をやさしくしてくれる童女だった。

こんなに人にやさしくされたのは、いつ以来だろうか。冷たいとばかり思っていた世界が、こんなにも温かいと感じたのは、初めてのことだったかもしれない。

―俺は〈死の穢れ〉を恐れられて世の中から見捨てられた。
あんたたちはそんな俺が怖くないのか?―

一度お邑にそう聞いてみたことがある。すると彼女はこう言ったのだ。

「怖いはずがありません。穢れなどというものは結局、私たち人間が恐怖心に駆られて自ら作り出した煩い悩みにすぎないのです。よってそのようなものはもともとどこにも存在していません。あなたは、そしてすべてのあなたたちは、一人ひとりが替えのきかない唯一無二の存在、菩薩なのです。そんなあなたたちに穢れなど、あろうはずがありません」

菩薩

お邑によると、そもそも〈穢れ〉観念の発生は、政(まつりごと)を行う貴族たちが神々の怒りを恐れていることに起因しているのだという。

穢れ。それは帝(みかど=天皇)の居する内裏に参内し、あるいは神を祀る行事などに携わる貴族たちが最も忌避する〈浄らかならざる穢れたもの〉なのだという。人や動物(馬・羊・牛・犬・豚・鶏)がもたらす死の穢れと出産の穢れ、そして家などが火災にみまわれる穢れなど。
それらの穢れに一度でも触れてしまうと、その貴族は参内することは許されず、清浄の身に戻るまで朝廷の行事や神を祭る行事に携われることもできないのだそうだ。
もし穢れを帝の居所である内裏に持ち込んだり、あるいは神の領域である神社等で穢れが発生すると、穢れを悪(にく)む神々の怒りを招いて帝が病となったり、疫病・霖雨(長雨)・旱魃など様々な災害が引き起こされてしまうのだという。

だからこそ、特に貴族たちは穢れに対して異常なまでに敏感にならざるを得ない。

神々の怒りに対する恐れ。それが〈穢れ〉観念を生み出す煩いや悩みのもとになっている。そのことを俺はそのとき初めて知った。お邑によれば、京中に貧者や病者が大勢いるのも、一つには貴族たちが〈死の穢れ〉を恐れていることにあるのだという。

つまり、貴族に仕えていた人が病となり、その人が死んで家の中などに〈死の穢れ〉が発生することを恐れた貴族が、死ぬ前に病人を外に出してしまうのだ。

かつて俺は病を理由に貴族の家を追い出され、他にもそんな病者や貧者を路上で目にしたことがあったが、その理由もお邑の話を聞いてようやく合点がいった。

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ですが私たちは、神々を祀る貴族の方々とは異なる立場にいます。
だからこそ、できることがある。私はそう思うのです。

彼女たちは捨てていた。神への恐れも穢れへの恐れも、余計なものはすべて捨てて生きているように思えた。区別も差別もすべてを捨てて、誰であろうと関係なく手を差し伸べる。穢れを恐れられて蔑視され、怖れられている俺たちすべてに安心を与えるために、彼女たちは生きている。

そんな彼女たちの温かく、やさしい態度と雰囲気に包まれて過ごすうちに、俺たちも少しずつ、次第に変わり始めていた。お互いがお互いを思いやるようになっていったのだ。

病気で苦しむ者がいれば、そうでない者がお世話をする。お腹を空かせた子どもがいれば、食べ物を与えてやる。そんなやさしいつながりが、鴻臚館の中で形作られようとしている。

そして俺は思うのだ。それはただのやさしさではない。ただのつながりではない、と。そこにあるのは、阿弥陀念仏を介してつながる、穏やかで、それでいて強く、温かいつながりなのだ。

阿弥陀仏様は、いつでも今ここで私たちを見守っていてくださっている。
そして必ず私たちを極楽浄土へと導いて下さるのです。

水色に光り輝く浄土の中で、癒しを与える阿弥陀仏様

「南無阿弥陀仏、阿弥陀仏。南無阿弥陀仏、阿弥陀仏」

阿弥陀仏様は、苦しみを生きるすべての俺たちを救おうと誓われた仏様のことだが、以前の俺たちはそんなことは信じていなかった。その存在すらも。仏や菩薩は財力のある貴族だけに目を向けて、下層社会に生きる俺たちには手を差し伸べてはくれないと思っていたから。
だが、今は違う。今は信じることができる。阿弥陀仏様は、今もここにずっといらっしゃるということを、心から信じることができる。あの人がそう教えてくれたから。あの人との出遇いが俺を、ここにいるすべての俺たちを変えてくれたから。お邑とレンの心の師であり、二人が心から尊敬している聖様。その人との出遇いがあったからこそ、止まっていた俺たちの時間は再び動き出したのだ。

市聖(いちのひじり)・阿弥陀聖の上人(しょうにん)様、
その人はそう呼ばれていた。

〈第1楽章〉(完)

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