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ワイワイ、ガヤガヤ。
「いらっしゃ~い」「ありがとうございました」「またどうぞ」
太陽が眩しい・・・・・。
私、空也はその光の眩しさに思わず手で目を覆う。しかしそれは、不快をもたらすものではない。むしろとても心地よい気持ちを私に与えてくれている。
まるで慈悲深き仏陀が、人々に平等に教えの光を与えてくれているかのように。
そしてこの光に照らされて生きる人々は、今日もまたこの場所で精いっぱい命の鼓動を響かせて生きているのだ。お互いに交流し合い、物を買い、物を売り、物を与え合い、活気に満ちた今を生きる。そんな人々の命の鼓動が私の耳に聞こえてくる。
命の鼓動、それは絶えず強靭な意志を生み、爆発的に燃え上がって、熱気に満ちた躍動感を今も生み出し続けている。人々のもたらす命の躍動、それは今そこにある、絶望の闇を遥か彼方へと吹き飛ばし、夢が交差する夢幻の都、平安京にこれ以上ない生き生きとした命の鼓動を響かせているのだ。どんなに今が辛くとも、いや、辛いからこそただひたすらに前を向き、今ここにある生命を、精一杯に輝かせて生きる。
たとえそこが、無常の風が吹き荒れる荒野であったとしても。
いや、そうであるが故に、なおさらにこの時を刻む。
そんな命の鼓動の中で、私は今日も生きている。人が行き交うこの場所で、静かにそして穏やかに、時を刻んで生きている。物と物の売り買いを通じて、実に多様な人々が絶えず行き交い交流し合う、京の都平安京の東市。その雑踏のただ中で、薦を廻らしそこに坐し、眼前に乞食用の破盆を設け、穏やかに食を乞いながら。私は今日もゆっくりと、人々の命の鼓動に耳を傾け安楽の時を刻みゆく。
だからこそ今、私は確かに感じることができている。私は決して独りではないということを。独りであるが独りではないということを、私は確かに感じることができている。
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わが弟子、沙弥空也よ。よく聞きなさい。
聞こえているだろうか。わが偉大なる師、阿弥陀仏よ、その偉大なる弟子たちよ。あなた方はかつてこの私に、そう教えてくれた。そして私は今まさに、その教えを肌で感じている。「すべてのものは空にして不生不滅である」というあなた方の教えを、この身心で確かに感じているのだ。
この東市も、もともとは「市」という固定的な実体というものを持ってはいない。様々な人の意志がはたらき、その意志が織りなす実に多様な関係性の中で「市」が成り立っているのである。都で暮らすために必要な物を売る市人(商人)がいて、物を買うために様々な身分の都の人々がここへ来る。市で売る物は諸国から京の都に運搬納入され、お店の陳列台の上に並べられてゆく。そして東市の安全は、朝廷から任命された市司によって保たれている。このように、東市は実に多様な関係性の中で成り立っている。したがって本来、東市は「市」という固定的な実体を持ってはおらず、「市」それ自体が自然にそこに生じることはない。そして生じることがなければ滅することもないものなのだ。
今、私は東市に身を置いて生きている。しかし、私は東市で生きているのではない。東市の人々によって生かされているのでもない。東市を作り出している、あらゆる階層の上下の区別を超えた実に多様な関係性の中に生かされているのである。東市という場所でいえば、物を売る市人(商人)は物を買う都の人々の命を支え、物を買う都の人々は物を売る市人の命を支える。地方や畿内で物を生産する人々は、東市に生きるすべてのもの、ひいては都に生きるすべてのものたちの命を支える役割を果たしている。そして平安京の東市で売る物を運搬する者は、地方・畿内の人々と都に生きる人々を繋いでゆく。朝廷から任命された市司は、東市の安心安全を保つことを任されている。
そのような世界の中で私のいのちは支えられ、生かされているのである。
「第2楽章 弥陀のおわします極楽京都―すべてを捨てて、捨て切って―」へ続く。
この記事を書いた人
じゅうべい(Jubei)
みなさんこんにちは。今日も元気がとまらない地球人、じゅうべいです。好きなことは遊ぶこと(漫画に映画、音楽(Jロック等)にカフェ巡り)です。
よろしくお願いします。