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後編:命の水よ、すべてのわれらに

「阿弥陀仏様は目には見えぬ。目は見えぬが、阿弥陀仏様は確かにいつもそこにおられる。確かにいつもそこにいて、すべてのわれらを見守っておられるのだ。

よってわれらが善行に励めば、阿弥陀仏様は必ずや、われらの善行に応えてくれるであろう。そして必ずや、すべてのわれらに大いなる利益(りやく)を与えて下さるであろう」

「命の水」を与えて下さるという最大の利益を、必ずや。

私はそれを信じている。そしてそれを信じ続ける。この心の底から。

・・・・俺、辰巳(たつみ)は空也様のその話を聞いて胸が熱くなっていくのを感じた。いや、体全体が熱くなるのを感じていた。阿弥陀仏様はいつもそこで俺たちを見守ってくれている。そして俺たちが善行に励めば、阿弥陀仏様は必ずそれに応えてくれる。「命の水」をすべてのわれらに与えてくれる。

嘘か本当か分からないような話だと思うだろう。だが、そのときの俺たちは確かにその言葉を信じることができたのだ。なぜなら、まず空也様の言葉には嘘というものを一つも感じることがなかったから。そこにあるのは、確かな信念に満ちた力強い言葉だったから。

阿弥陀仏の画像

そして何より、俺たちは空也様と出遇って、阿弥陀仏様の存在を確かに感じることが、確かに信じることができたのだから。阿弥陀仏様は確かにいつもそこにいる。いつも俺たちと共にいる。いつも俺たちを見守り続け、すべての俺たちをつないでくれている。そのことを、確かに信じることができているから。

皆も同じ気持ちなのだろう。興奮気味にそわそわしている。その空気の中、さらに空也様は続ける。
「そして、その善行に参加したすべてのわれらは間違いなく、生きていても死して後にも、極楽浄土に生まれ変わることができるであろう。阿弥陀仏様のお導きによって」

井戸、それは都に生きるすべての俺たちを生かす命の源となるだろう。たとえ日照りが起きたとしても、阿弥陀仏様が与えて下さる「命の水」の湧き立つ井戸が、必ずわれらを救ってくれるだろう。差別も区別もなく、平等に。

俺の心は決まっていた。盗賊として人から物を奪うことしかできなかったあの頃。あの頃の自分から少しでも変わるために。奪うのではなく、与えられる人間になるために、俺は善の道を行くのだ。どうやら皆も気持ちは同じだったようだ。反対する人は、誰一人いなかった。むしろ喜んでこの善行に参加したがったのだ。

世の中に見捨てられた苦しみを知っているからこそ。そこから救ってくれた阿弥陀仏様への感謝があるからこそ。そして、阿弥陀仏様の教えの絆で共につながっているからこそ、俺を含め西鴻臚館に集まっているすべての俺たちは、喜んでこの善行に参加を決めたのだった。

金色背景のの阿弥陀仏。

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そして俺たちは今、念仏を称えながら京の都を歩き回り、空也様の主導のもと水なき所に井戸を掘り、そこを阿弥陀井と名づけて回っている。井戸を掘るのはなかなか大変だが、そこは経験豊富な空也様の知識と技術が役に立った。

空也様は若年の時―出家前の修行者たる優婆塞としてこの国の各地、五畿七道を渡り歩き、名山霊窟に遊んでいた時―、水のない所があれば杖を投じて水脈を探り、井戸を掘って人々の渇きを潤して回ったことがあったのだという。

井戸を掘る技術と場所の選定法は、在俗の優婆塞工人の仲間から教わったものなのだとか。

井戸は木の枠で作られるもので、ほかに適当な板材があればだいたい誰でも簡単に作ることができるという。一辺三.五尺(一メートル)前後の方形に組んだ木の枠と、四隅の支柱を骨組みとして、周囲を縦板で囲むのだ。底部には水の浄化を保つために礫(れき)や板を敷き、あるいは湧水を効率的にくみ上げて一定の水量を保つために、曲物(まげもの)という容器を据えたりもする。

こうして出来上がった井戸は「阿弥陀井」と名づけられ、すべての人々のいのちをつないでゆくのだ。いや、それだけではない。ここは、すべての善友たちが集まる場所になるだろう。

阿弥陀仏の画像。

そしてここから、さらに阿弥陀仏様の教え(「空」の世界に入り、「空」の境地に生きる教え)の縄が人と人をつないでいくに違いない。都で座礁し挫折して、死と絶望の淵にある人々が救われる場所に、そこはなるかもしれない。

死の座礁に喘ぐ人々が、阿弥陀仏様の教えという黄金の縄でつながってゆき、
もう一度立ちあがって生きてゆけるようになるのだ。

第1楽章(完)

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