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ぅぐあははははは!!

姿の見えない鬼

お前も霊鬼(れいき)にしてやろうか!

ごきげん麗しゅう、人間界の者たちよ。吾輩は〈鬼〉である。名前などない。この世に生きる人間どもが勝手に吾輩のことをそう呼ぶものだから、そう名乗っているにすぎないのだ。だが諸君、その呼び名は、実は根拠なき好き勝手な妄想ではない、ということを御存じかな?

〈鬼〉。これはそもそも死者の魂を意味する言葉なのだ。

〈鬼〉という言葉が中国から新たに日本に移入された時、日本人はこの言葉に〈モノ〉という大和言葉を当てて理解をしようと試みたのだよ。
〈モノ〉、それはアニミズム崇拝の対象となる諸々の精霊の意。物怪のモノ、化物のモノ、さらには物語のモノにも通ずる、幅広い意味領域を持つ言葉なのだ。

また、人々は〈鬼〉に〈オン〉という言葉を与え、これをオニと仮名表記した。
それは〈隠〉に通じて、形なく姿なき存在の意であったのだ。

そういうわけで、人間どもから見れば吾輩は、姿なき精霊または物の怪、すなわち〈鬼〉という存在らしい。

そんな吾輩がいま住んでいる場所、それがここだ。

かつて平安京の中心だった朱雀大路。都の南の正門・羅城門から朱雀大路を北へまっすぐ進むとそれはある。

朱雀門

宮城・大内裏である朱雀門。

朱雀門に建てられた石壇は、幅47m、奥行き14m。その上に丹塗りの柱に城壁を備え、かつてはそれはそれは壮麗な楼門としてそびえていたのだ。

朱雀門はただ客を迎え入れるだけでなく、雨乞いやみそぎはらえなどの儀礼を執り行う舞台とされてもいた。

だが・・・・・・。

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燃える炎(災害のイメージ)

水はけの悪さと疫病から朱雀大路の西側の地域がさびれるとともに、度重なる大火で大内裏も荒廃してしまう。やがて都の中心が東に移され、取り残された朱雀門はその正門としての役割を失ってしまうのだ。

こうして荒れるがままとなった朱雀門は、
吾輩のような鬼や化け物が巣食うといった噂が立つまでになった。

そのような朱雀門であるが、恐れおののいた人間の中でも吾輩が特に印象に残っている人物がおったな。

源博雅(みなもとのひろまさ)。
そう、確かにそのような名前であったぞよ。

源博雅

きゃつは平安時代中期の雅楽家で、琴・琵琶・筝(そう)、笛などの名手として知られておる。

そう、あの夜、かの博雅は朱雀門の下で笛を吹いておった。

夜の朱雀門

朱雀門楼上にいた吾輩は、あまりにその笛の音色が美しかったものだから、博雅とともに楼上より合奏をしたのだ。博雅は吾輩の合奏に合わせるかのように、そのまま笛に興じておったよのう。こうしたことが何度か続いた後、博雅は〈鬼〉と呼ばれた吾輩と笛を交換したのだったなぁ。

やがて博雅が没して後、その笛の音が聞きたくなった天皇が、同じく名人とされる浄蔵に朱雀門の下で吹かせたこともあった。そのときも吾輩は朱雀門の楼上にいたのだが、かの浄蔵はあの博雅よりもなんとも上手に笛を吹くものだから、つい「浄蔵の方が上手だ」と口に出して言ったことを今でも覚えておる。

ほかにも、学者で漢詩人の紀長谷雄(きのはせお)が、〈鬼〉である吾輩に双六を挑んだこともあったのう。

人はそんな吾輩を、風流を解する鬼、と呼んだとか。
まあ、恐ろしい鬼と呼ばれるよりも、はるかにマシというものよ。

・・・・・おっと、もうこんな時間か。そろそろおねんねの時間だ。では皆の衆、今日はこのへんで、安らかなおねむりを。さらばだ!

ぅぐあははははは!!

参考文献

『京都魔界地図帖 ~地図と写真でたどる京都裏歴史ロマンの旅 』P54「朱雀門跡」(〈別冊宝島 2356〉2015年)。
深沢徹「羅城門の鬼、朱雀門の鬼―古代都市における権力産出装置としての楼上空間―」(深沢徹『中世神話の煉丹術』1994年、人文書院)。

朱雀門(現在、門は現存しておらず、跡地として残っています)

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