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おうおう、今日も北野天神様は平和そのものという感じでそこに鎮座しておられるわ。これも、〈学問の神〉として祀ったおかげかのう。

北野天満宮

今日もわしは、京の都で平安な日々を送ることができることに感謝しながら、そこに足を運んでおった。生前の優秀さから〈学問の神〉として祀られることとなり、かつて日本の政治にそれはそれは力を尽くしたそのお方、菅原道真公(天神様)にお会いするために。

あれからどれほどの月日が流れたであろうかの。わしもすっかり老いてしまったが、これでも昔は貴族として平安宮に参内する身分じゃった。であるから道真公のこともよく知っておるのじゃ。

あの時のことを思い出すと、今でも胸が痛くなるわいな。

そう。そもそもこの北野天神様のお社は、道真公の祟りを鎮め、神として祀るために建てられたものなのじゃ。

今は昔のことであるが、かつて宇多・醍醐両天皇に仕えていた菅原道真公は、若くしてその才能をいかんなく発揮し、日本の政治改革にそれはそれは力を尽くしておったのじゃよ。

菅原道真

両天皇からの信任は厚く、文章博士(もんじょうはかせ)・讃岐守(さぬきのかみ)を歴任し、さらには右大臣にまで昇ったすごい人なのじゃ。

しかし、その活躍を快く思わない人々もいた。非凡な才を発揮して政界で活躍していた道真公じゃが、それは既得権益を奪われた有力貴族から反発を受けてしまい、ついには左大臣であった藤原時平の中傷で謀反の罪を着せられ、遠く大宰府に流刑にされてしまったのじゃよ。

その失意はどれほどのものであったか、
それはもうはかり知れんのう。

道真と梅―左遷直後の道真―

そして都から遠く離れた地に左遷された道真公は、失意のうちに大宰府で死を迎えることになったのじゃった。

じゃがの・・・・・これは始まりにすぎんかった。
本当の悲劇は、ここから始まった。

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道真公の死後、京の都では次々と異変が起きる。道真公を無実の罪に陥れた政敵の藤原時平。彼が病に倒れると、青龍姿の道真公が怨霊となって現れたという。そして時平の死後はその皇子たちも振るわず、流罪を命じた醍醐天皇の子や孫も次々と病死してしまった。しかもそれだけではない。さらには御所に雷が落ちて多くの死傷者を出すまでにいたり、ついに醍醐天皇自身も病に倒れてしまうのじゃ。

われ、無念を残して雷神となり、
政敵をことごとく葬り去らん。

道真の怨霊

その時にわしは思った。そして確かに感じていた。これはまさしく道真公の祟りに他ならないということを。無念の思いから怨霊となった道真公が時平の前に現れ、そして雷神を従えて雷を落とし、都に、そしてわれらに祟りを振りまいているのだと。

そして、この一連の出来事を道真公の祟りだと恐れた朝廷は、
慌てて名誉回復を図ったのじゃ。

道真公を右大臣に戻したうえで正仁位の官位を授け、さらに雷神として北野天満宮に祀った。そして、生前の優秀さから〈学問の神〉として崇めるようになったのじゃ。

学問の神として北野天満宮に祀られた道真

それ以来、菅原道真公は京の都の北野天満宮にて、学問の神様として多くの人々に慕われ、多くの参拝者が訪れるようになった、というわけなのじゃよ。

北野天満宮

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