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数年前に発行された、日本文化研究センター所長の井上章一先生著「京都嫌い」という書物が当時ベストセラーになりました。
井上章一先生
「京都嫌い」の表紙
この書籍で人々の注目を集めたのが、冒頭に書かれているあるエピソードでした。
簡単に説明すると、学生時代の井上先生が下京のある旧家のご主人と話をしていたところ、唐突に「君はどこの子や?」と尋ねられたというのです。
嵯峨出身の井上先生が、「はい、二尊院の近くの・・」と答えかけると、ご主人は「懐かしいなあ~」と言ってから、一言。
「ちょっと前までその辺の人が、よう肥を汲みにきたもんや。」
これを聞いた瞬間、井上先生は洛中と洛外にこだわる洛中人の本質を感じないではおれなかった、と記しています。
以来この記述を読んだ人々の間で、盛んに洛中と洛外について論争が交わされるようになったと聞きます。
洛中は洛外を馬鹿にしている、ところが洛外は洛外で亀岡を馬鹿にしている、亀岡は滋賀を馬鹿にしている…とどんどん話は広がっていくわけですが、行き着く先は東京なんてたかが100年ちょっとの都にすぎひん、京都は天子様を一時的に江戸へお貸ししているだけやとなって、京都独特の誇りの高さが揶揄されて話は終わります。
こうした論議を耳にするといつも思うことですが、大体どの人も洛中は困ったもんだという論調で話を進めていて、洛中人の一人であるコラム子は「ほんまにそんな呆れられることばっかりなんやろか?」とかえって反論したくなってくるのです。
そこで今回はこの場を借りて、洛中のど真ん中、番組と呼ばれる地域で生まれ育ったコラム子が日本初の小学校を創設するのに尽力した町衆の心意気を紹介しながら、今日の町衆のプライドが高いのは決していわれのない理由からではないのだ、という歴史的事実を明らかにしていこうと思います。
番組小学校が誕生した経緯について
洛中洛外という言葉は聞いたことがあっても、番組という単語は耳慣れない方が多いのではないでしょうか。
この言葉の起源は室町時代まで遡ることができます。
洛中が焦土と化した応仁の乱以後15世紀に、街の復興と途絶していた祇園祭の再開の原動力となったのが「町組」と呼ばれる自治組織を持つ町衆でした。
そのころから現在の上京、中京、下京に当たる地域に住んでいた町衆は「町組」と呼ばれ、極めて強い自治精神を抱いていました。
さて、幕末から明治初期にかけて京の都に激震が走ります。
幕末の戦乱で新選組が火を放ったために京都の町の大半が焼失したとされる通称「どんどん焼け」と天皇が東京に移動して遷都したことによって、京都の人口は3分の1にまで減少してしまいます。
これに危機感を持ったのが「町組」の地域に属する町衆でした。
明治2年に行政から、27の「町組」が1つの「番組」と定められて、上京に33の番組、下京に32の番組が成立します。
この番組の町衆は、京都を復興させるには教育の充実、すなわち人作りが最も肝要であると考えて、普通教育の実施と小学校の創設に取り組んだのでした。
その結果わずか半年後の明治2年に、上京と下京の合計64の番組に1つずつ、町衆たちの手によって日本初の小学校が次々に誕生したのです。
これは、日本政府が法律で学校制度が制定する明治5年に先立つこと、3年前の出来事でした。
文字通り日本で最初の学区制小学校の誕生だったのです。
創設された学校はそれぞれの番組の数から、「上京何番組小学校」、あるいは「下京何番組小学校」と命名されました。
64の番組小学校の地図
こうして創設された番組小学校の設立の資金や運営費用は、ほとんどが豪商の寄付で賄われていました。
町の豪商というと、とかく祇園祭の担い手というイメージが先行しがちですが、明治初期の町衆の、「政治的な実権を東京に奪われてしまった我ら京都人は、これから教育に力を注ぐのだ、新しい京都の牽引役を我々が育てるのだ」との意気込みと情熱は、もしかすると祇園祭に注ぐ以上のものだったかもしれません。
地域の手による学校運営、「竃金」(かまど金)の制度
各番組地域に1校ずつ誕生した番組小学校は、ただ豪商たちの寄付だけで賄われていたのではありません。
開校すると同時に、いずれの番組地域でも町民1人1人に学校の運営資金の負担が課せられます。
年に1分ずつ(現在の2500円)をすべての町民が納めるお金のことを「竃金」(かまど金)と呼びました。
これは、小学校は我々の手で運営推進していくのだ、との強い意識と自覚が当時の町衆に宿っていたことをうかがわせます。
番組小学校の授業内容
さて、こうして発足した小学校の授業内容は、当初「句読」、「暗唱」、「習字」「算術」で江戸時代の寺子屋の延長線に近いものでした。
これは職人と商人の多い京都では、江戸時代から跡継ぎの子弟に「読み書き」と「そろばん」を習わせることが盛んだったためです。
しかし次第次第に友禅や焼き物に携わる町衆の間で、「日本画」の授業を望む声が高まってきます。
それを受けて明治20年ころから、日本画の授業が導入され始めて、教師は地元の画家が担当しました。
これらの教え子の中から近代の日本美術界を背負って立つ著名な画家や陶芸家が続々と輩出されます。
上村松園、竹内栖鳳、北大路魯山人などの芸術家は出身校の思い出を忘れず、名前が知られるようになった後も母校に喜んで自身の作品を寄贈しました。
現在彼らが母校に寄贈した作品は2500点以上に上るそうです。
上村松園作の日本画の教科書のページの写真
また、こうした人材を輩出した町衆たちも、自分たちの学び舎から育っていった卒業生が長じて有名な画家や陶芸家になったことを、自分たちの誇りとし喜びとしていました。
美術史家の森光彦氏の記録によると、「京都は学校を美術品で飾る文化があり、作法室に掛け軸や屛風が置かれた。それらは町衆が寄贈し、番組内に住む画家は寄贈作品を依頼されると誇りに感じた。」とされています。
地域における番組小学校の役割
番組小学校は教育の場としての役割だけではなく、町組会所、戸籍、納税、消防、警察といった側面も併せ持っていました。
これは、学校が町衆の強い自治精神から発足したものだということに起因しています。
番組小学校が開設された翌日には、早速各番組から「火の見櫓」を取り付けてほしいという要望書が提出されました。
それは、わずか数年前に起きた「どんどん焼け」の二の舞を防ぎたいとの切実な町衆の願いを反映したものでした。
更に2年後の明治4年10月には防火楼の横に報時鼓が設けられて、小学校が番組地域全体に時刻を知らせる役割を担うようにもなります。
当時の時刻を知らせるための太鼓と火の見櫓の半鐘
明治の教育史に詳しい和崎光太郎氏はこう記しています。
「番組小学校は番組内で最も高い建物となり、地域のコミュニティーセンターであるとことに加え、地域のシンボルともなったのである。」
番組小学校のその後
開校当時、「上京何番小学校」「下京何番小学校」と呼ばれていた64の小学校は、やがてそれぞれが地域の歴史や儒教の教えなどに基づいた学校名に移り変わっていきます。
例えば、「柳池」(りゅうち)や「聚楽」(じゅらく)や「正親」(せいしん)など。
このように明治初年から大正、昭和の100年以上にわたって地域の学び舎として親しまれてきた64の小学校ですが、昭和の終わりとほぼ時を同じくして少子化と都市のドーナツ化の傾向とが著しくなっていき、平成に入るころから統合、閉校を余儀なくされます。
現在、創立当時のまま残っている小学校はわずか4校しかありません。
いくつかの小学校が統合して新しい1つの学校となった場合は、校舎も新しくなり、校名も変わってしまっています。
閉校した学校の中には、古い趣のある建築を公共の施設として再利用されているもの、民間のホテルとして利用されているものなど様々です。
例えば、元・明倫小学校は現在「京都芸術センター」となっています。
また、元・龍池小学校は「国際京都マンガミュージアム」に生まれ変わっています。
明倫小学校の校舎の写真
ただ、元の小学校が姿を消しても、学区の人々が依然として昔の地域の意識を今も変わらず持ち続けていることは確かです。
西陣小学校がなくなっても、そこに住んでいる人々は「うちらは西陣学区の人間や」とう愛着を持っていることに変わりはありません。
この学区の意識は、洛中という大まかで広い地域を指しているのではないだけに、もっともっとはるかに強固です。
では、締めくくりにコラム子の母校「中立小学校」の場合を挙げてみましょう。
輝く中立と自称していた中立小学校の場合
コラム子の母校である中立小学校は御所の中立売御門に隣接する小学校でした。
開校した当時は「上京16番小学校」という名前でした。
中立小学校の写真
ご維新の前は御所に仕える宮侍が多く住んでいた地域でしたが、明治以降はお寺や学校、それから知事官舎や警察本部などの公共施設が多い地域となっていました。
学校のすぐ近くに、うっそうとした緑に囲まれた大きな邸宅があって、これは三井財閥の別宅でした。
学区の人々は、親しみを込めて「三井さんの森」と呼んでいました。
コラム子の両親、それからどちらの方の祖父母もそろって中立小学校を卒業したのですが、当時コラム子の周りの同級生の家族構成は似たようなケースが多かったと記憶しています。
さて、コラム子が中立小学校に通っていたころがどんな具合だったかいくつかの例を述べましょう。
①授業の場で繰り返し先生が口にする言葉。
「中立はな、小学校の東大やで。日本一の名門や!」
きっと、これは地域の大人たちが教師たちに一種の圧力をかけて、そういわせていたのではないかと思います。
②中立小学校の校舎はどっしりとした大正のモダン建築でした。
京都で最初の鉄筋コンクリート造りの校舎だったと、いやというほど聞かされました。
その際に必ず聞いた話。
「昭和9年の室戸台風では木造建築やった西陣小学校やらあちこちの学校が壊れて、その下敷きになってぎょうさん児童が死んだ。中立小学校はその時からコンクリートやった。そやからうちは先見の明があったんや。」
③毎年の創立記念日には、在校生だけでなく往年の卒業生であるいい年をした大人がぞろぞろ喜んで参加します。
みんなよそ行きの格好で、中には羽織袴のおじいさんまでやってきました。。
子供だったコラム子は、何でいい大人がそんな場にのこのこ出かけてくるのか、さっぱり理由がわかりませんでした。
④学区で行われる区民運動会がバカに派手。
学区を形成している町同士の対抗の場である関係で、町ごとの結束が固かったです。
⑤平成7年、中立小学校が統合されたとき、代々の卒業生が自主的に「学区だより」という雑誌を企画・発行して今日に及んでいます。
定期的に送られてくる機関誌の内容は、京都の名門、小学校の東大という昔ながらの誇り高い自画自賛で、「なんというたかて、うちらの中立小学校やもん!」という思い入れが熱っぽく語られています。
中立小学校は、隣接していた「小川」、「滋野」の2つの小学校と統合され、新町小学校という名称に変更されました。
最後に、最近コラム子が出くわした番組小学校がらみのエピソードをご紹介しておきます。
Kさんというその人は古い家柄の京都人なのですが、ある時この人と一緒に新町今出川から新町通を下がっていったことがありました。
コラム子には目にするものが懐かしいものばかりでしたので、ちょうど元中立小学校のあった場所に差し掛かった時、「懐かしいなあ」と声を上げたとたんKさんが尋ねました。
「あんた、出身小学校はどこや?」
コラム子が「中立や」と答えると、その人のコラム子を見る目が変わったのです。
まっとうな京都人としての扱いをしてくれた瞬間とでもいえばよいでしょうか。
コラム子がKさんに出身校を尋ねると、Kさんは得意満面言いました。
「わしか?わしは待賢(たいけん)や。」
そして、こう付け加えたのです。
「中立のすぐ下や。どっちも由緒正しい学校やな。」
これを聞いて、コラム子は思いました。
番組小学校の出身者ならではのセリフやなあ、と。
むすび
以上、番組小学校にまつわる歴史や、その特色、そして現在などを述べてきましたが、昔も今もその学区の人々に変わらず流れているのは町衆の心意気であり、自分たちの手によって自分たちの地域を守っていくとの強い自治精神です。
そこには番組地域の人間以外は人にあらずという変なおごりもあるにはありますが、それと同時に「このまま衰退してはならん!」との危機感から結束して、自主的にわずか半年間で64もの小学校を設立するに至った町衆の行動力と先見性も同時に併せ持っているのではないかと、コラム子は考えるのです。
参考文献
①「京都嫌い」井上章一著、朝日新書
②「京都番組小学校に見る町衆の自治と教育参加」和崎光太郎著
③「番組小学校」京町衆の意心意気 日本経済新聞電子版
④「輝く中立」創立120周年記念出版
⑤「中立学区だより」平成23年号
この記事を書いた人

つばくろ(Tsubakuro)
京都生まれ、京都育ち、生粋の京都人です。
若い頃は京都よりも賑やかな東京や大阪に憧れを抱いていましたが、年を重ねるに従って少しづつ京都の良さが分かってきました。
このサイトでは、一見さんでは見落してしまう京都の食を巡る穴場スポットを紹介します。