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フォーククルセダーズのメンバーの写真
イムジン河(臨津江)の写真
はじめに
日本の音楽シーンを塗り替えた京都発祥のバンド「フォーククルセダーズ」と
伝説の名曲「イムジン河」
コラム子は京都御所のすぐ近くで生まれ育ったのですが、幼いころ御所へ遊びに行くと、あちこちの芝生で楽器を演奏しながら歌っているお兄さんのグループを見かけることがよくありました。
今から50年以上昔の話です。
小さかったコラム子には何の曲やらサッパリわかりませんでしたが、それでもその人たちの風采はパッと目を引くものがありました。
髪の毛が長いこと、赤や黄色や緑などの色とりどりの服を着ていること、そして自分たちで楽器を演奏しながら歌っていること。
更に、その歌の雰囲気が何となく新しい感じがすること。
御所を一歩外に出たら決して出会うことのない特別な種類の人たちでした。
幼かったコラム子は、物珍しさと好奇心からそうしたお兄さんたちの様子を飽きずに眺めていたものです。
それからしばらくして、ある時年上の従姉妹の家に遊びに行った時、従姉妹が「面白い曲を聞かせてあげる。」と言ってかけてくれたレコードが、「帰って来たヨッパライ」でした。
「ハレンチ」のレコードジャケットとレコードの盤面の写真
おらは死んじまっただ
おらは死んじまっただ
で始まる奇想天外な歌詞と、早回しテープのコミカルな声で歌われるこの曲は、1度耳にしたら忘れられないほど強烈なインパクトがありました。
「今大ヒットしてるんえ。これを歌うてるんは同志社とか府立医大とかの大学生の人らえ。」と従姉妹は説明してくれました。
「この人らのグループは『フォーククルセダーズ』というんえ。」
確かその翌年の秋だったと記憶していますが、コラム子は、近所の知り合いで同志社大学の学生だったあるお兄さんから大学祭の入場券をもらったのです。
母親に付き添われて興味津々で出かけて行った同志社大学のキャンパスでは、折しもフォーク・コンサートが開かれていました。
次々にステージに登場する歌い手の格好を見て、コラム子は初めて、それまで御所でよく見かけたグループの正体が理解できたのでした。
同志社大学は御所のおひざ元です。
「大学生の人の間では、こういう音楽が流行っているんやな。」―――小さいながらも、何となく音楽のブームというものが分かった瞬間だったと思います。
大学祭の光景の写真
ほぼ同じころ、同じ従姉妹が「あの『帰って来たヨッパライ』を歌うてた『フォーククルセダーズ』の新しいレコードえ。」といって聞かせてくれたのが「悲しくてやりきれない」と題された曲でした。
悲しくてやりきれないのレコードジャケットの写真
前の「帰って来たヨッパライ」とは打って変わった切々とした美しいメロディーラインは、子供心にも深くしみいるものがありました。
「ああ、残念やなあぁ。こんなに人気があるのに解散してしもうて。」と、その時従姉妹はため息をつきました。
「この人ら、もう一緒にやったはらへんの?」と、コラム子が尋ねると、
「そうえ。もう解散しはったんえ。」と、従姉妹は答えました。
結局、コラム子は現役時代の「フォーククルセダーズ」を見たことはただの1度もありませんでした。―――テレビ画面でさえも。
やがて時は流れて、コラム子が大学生になった時のことです。
コラム子の入学した大阪外国語大学では、毎年大学祭で各語学科で語劇を行う慣わしがありました。
ある年の大学祭で、コラム子は朝鮮語学科の友人が出演する劇を見ていました。
するとカーテンコールの時に、朝鮮語学科の学生全員が舞台あいさつでこう言ったのです。
「我々朝鮮語学科の学生は、南北の統一を願って『イムジン河』を合唱したいのです。だけど、国際情勢上それはできません。あの『フォーククルセダーズ』が、「イムジン河」をレコーディングしておきながら政治的な理由で発売中止に追い込まれた時から、日本を含む南北の分断は現在も変わっていないのです。」と。
その時、コラム子は久しぶりに「フォーククルセダーズ」という名前を耳にして、彼らの曲の中で、未発表の「イムジン河」という曲があるらしいことを知ったのです。
さて、いささか、自分史の一面も併せ持つ書き出しとなってしまいましたが、以上のエピソードから、「フォーククルセダーズ」についていくつかのことがお分かりいただけるでしょう。
すなわち、「フォーククルセダーズ」とは
① 京都の大学生が結成したバンドであること。
② センセーショナルな大ヒット曲でデビューを飾ったこと。
③ 著しくイメージの異なる第2曲目を発表して、すぐに解散したこと。
④ 政治的物議を醸しだす原因になるような、いわくつきの「イムジン河」という曲を残したこと。
これよりは、京都から生まれた学生バンドのナンバーワン、「フォーククルセダーズ」について述べていこうと思います。
「フォーククルセダーズ」とは?
「フォーククルセダーズ」のメンバーの写真
昭和40年、当時龍谷大学の学生だった加藤和彦が雑誌「MEN’S CLUB」の読書欄に、「一緒にフォークを演奏してくれるメンバーを募集します」と投書したのに応じて集まった若者によって結成されました。
加藤和彦の写真
加藤和彦は京都生まれ、東京育ち。ボブ・ディランとビートルズの影響で音楽を始めました。斬新なアイデアと本格的に学んだ音楽理論に基づいた創作活動によって、昭和40年代~50年代の日本の音楽シーンをけん引しました。後に、歌舞伎や舞台音楽など様々なジャンルの作曲も手がけましたが、平成20年うつ病の悪化により自殺しました。享年62歳。時代の最先端を行くファッションリーダーとしても知られました。
北山修の写真
北山修は京都生まれ、京都育ち。代々医者の家系であったことから、グループ結成当時は京都府立医大の医学生でした。作詞の才能に秀で、「フォーククルセダーズ」解散後も精神科医に従事しながら、数々のヒット曲の作詞を担当しました。現在は白鳳大学学長。
「フォーククルセダーズ」の結成メンバーはこの2人のほかに、浪人生が2人と高校3年生が1人いました。
約3年間のアマチュア時代、浪人生のメンバーは受験に専念することもあったりして4人になったり3人になったりしながら、関西のアンダーグラウンドで活動していました。
また、加藤和彦も当初プロになる気は毛頭なく、将来はコック志望だったといいます。
一方の北山修は精神科医になることを目指して勉強していました。
そんな昭和42年、メンバーの1人がヨーロッパ旅行に行くのをきっかけに、グループの面々はこれを区切りにしようと解散を決意します。
「解散記念に自分たちのレコードを製作しておこうじゃないか」と北山修が提案したことで、北山の父親から23万円を借りて自主製作アルバム「ハレンチ」を発表。
このアルバムに収められた曲はほとんどがコピー曲でしたが、その中に1曲だけ彼らのオリジナルがありました。
それが、後に大ヒットとなる「帰って来たヨッパライ」です。
ところが、全部で300枚プレスしたレコードはたった100枚足らずしか売れずに、残りは北山の家に山積みになる始末。
困り果てたメンバーはレコードを持参して、知り合いのラジオ局に宣伝のため走り回りました。
そうしたところ、関西のラジオ局がアルバムの中の「帰って来たヨッパライ」を深夜放送で流してくれたことで一気に火が付き、リクエストと問い合わせが殺到。
一夜にして彼らのグループ名は日本全国に知られることになったのです。
早速、いくつものレコード会社が「帰って来たヨッパライ」のシングル盤の発売契約を申し入れます。
同曲のシングル化にあたって、東芝音楽工業と契約したのは、加藤和彦が神様のように尊敬していたビートルズのレーベルが東芝だったからだそうです。
「帰って来たヨッパライ」
これは「フォーククルセダーズ」の最初の大ヒット曲で、売り上げ総数はなんと280万枚。
ヨッパライが飲酒運転で死亡して天国に行きますが、神様にられても天国で酒を飲み続けて、結局天国から追い出されてしまう。
ところが階段を踏み外して地上に落下、無事生き返るというオチ。
エキセントリックな歌詞とテープの高速回転による甲高い声が、聴いたものを驚かせるコミックソングの先駆け的作品です。
この詩を書いたのが松山猛という人物でした。
松山猛は、たまたま四条河原町を歩いていた時、偶然知り合った加藤和彦と意気投合して、メンバーと交流するようになったのです。
ただし、音楽は全くできません。
松山猛の写真
京都生まれ、京都育ち。コリアタウンに近い所で育ちました。通っていた自身の中学校の生徒と近くの朝鮮中級学校の生徒の間で喧嘩が絶えず、松山は、サッカーで交流を深めようと朝鮮中級学校に試合の申し込みに行きました。
その時、偶然耳にした「イムジン河」という曲に魅せられたといいます。。
そのあと、鴨川の河原で知り合いになった朝鮮中級学校の友人から、「イムジン河」の歌詞と朝鮮語の辞書を手渡されて、松山自身が歌詞を日本語に翻訳します。
後に「フォーククルセダーズ」のメンバーに同曲を紹介しました。
松山猛は現在は作詞家、エッセイストとして活動中。
「フォーククルセダーズ」のその後
「帰って来たヨッパライ」の大ヒットから、レコード会社は彼らにプロデビューを懇願します。
しかし、卒業を目前に控え、コックとしての就職先も決まっていた加藤和彦は乗り気ではありませんでした。
加藤は、「1年たったら解散する」を条件に、しぶしぶプロになることを承諾しました。
北山修を除く後の2人は家業を継ぐとの意志が固く、この時点でバンドを脱退してしまいます。
その穴を埋めるのに新しくメンバーに加わったのが、同志社大学の神学部の学生だったはしだのりひこです。
世間で知られている「フォーククルセダーズ」は、はしだのりひこが参加してからの3人体制を指しています。
1967年末にプロデビューのため再結成された「フォーククルセダーズ」は、2枚目のアルバム「紀元弐仟年」とシングル曲「悲しくてやりきれない」を残して、約束通り1968年10月17日にさよならコンサートを開催して、解散。
わずか7か月余りの活動期間でした。
アルバム「紀元弐仟年」のジャケット写真
悲しくてやりきれないのジャケット写真
解散後、加藤和彦はプロのソロシンガーに転向。北山修の作詞、加藤の作曲で「あの素晴らしい愛をもう一度」を発表した後、サディスティック・ミカ・バンドを結成したり、再びソロになったりしながら、作曲家としても数々の楽曲を手掛けます。
北山修は精神科医になる傍ら、作詞家としても活動しました。
はしだのりひこは「はしだのりひことシューベルツ」、「はしだのりひことクライマックス」などのグループを結成、解散を繰り返したのち、ソロに転向。
はしだのりひこの写真
「イムジン河」と「悲しくてやりきれない」にまつわるエピソード
「イムジン河」は、先にも少し言及したとおり松山猛の手を介して「フォーククルセダーズ」に渡りました。
「イムジン河」とは、大韓民国と北朝鮮民主主義人民共和国の国境線である38度線をまたいで流れる実在の河の名前です。
イムジン河(臨津江)の流れる地図の写真
歌詞は以下の通りです。
とうとうと流る
水鳥自由にむらがり飛び交うよ
わが祖国 南の地
おもいははるか
イムジン河 水清く
とうとうと流る
北の大地から
南の空へ
飛び行く鳥よ 自由の使者よ
誰が祖国を
二つにわけてしまったの
誰が祖国をわけてしまったの
イムジン河 空遠く
虹よかかっておくれ
河よおもいを伝えておくれ
ふるさとをいつまでも
忘れはしない
イムジン河 水清く
とうとうと流る
美しいメロディーと哀愁に満ちた歌詞の内容から、はじめ松山猛は、この曲を作者不詳の民謡だと思ったのだそうです。
朝鮮中級学校の友人からもらった原詩には1番しか書かれていなかったので、松山猛は独自に2番と3番の歌詞を作成しました。
1番の歌詞の内容から、北と南の両国の分断の悲しみを歌い、統一を願うという趣旨の2番と3番に仕上げたのです。
そして、松山猛は、この曲を「フォーククルセダーズ」に引き継ぎました。
「フォーククルセダーズ」はアマチュア時代から、アングラコンサートの場でこの「イムジン河」を何度も歌っていました。
そして、彼らの最初のアルバム「ハレンチ」にもこの「イムジン河」は収録されました。
歌詞、旋律がともに非常に美しいことから、東芝音楽工業のプロデューサーは1度聞いただけで「これは絶対売れる!」と直感したそうです。
そして、グループの2枚目のシングルとして「イムジン河」を制作して大々的にキャンペーンを実施しました。
ところが、発売日の前日、突然このレコードは発売中止になってしまいます。
それは、朝鮮総連から抗議が入ったためでした。
その理由は、この「イムジン河」は、松山猛やメンバーが思い込んでいたような作曲者、作詞者不明の朝鮮民謡ではなかったからでした。
この曲は、北朝鮮の国歌をも作曲した朴世永の作曲、高宗漢の作詞による楽曲で、1958年に発表されたプロパガンダ・ソングでした。
そのうえ、松山猛がないと思っていた2番の歌詞も実はちゃんと存在しました。
2番の歌詞の内容は、南は作物が実らない荒れた土地であるが、北は実り豊かな土地である、それを河の流れとともに南へ伝えてほしい、という北の優位を誇示するものでした。
そんなことを全く知らなかった松山猛は、1番の歌詞を膨らませたイメージで、南北の分断を悲しむ歌詞を作っていたのです。
当時国交も樹立していなかった北朝鮮の朝鮮総連から抗議の申し入れがあったこ
とにより、下手すれば政治問題に発展しかねないことを恐れた東芝音楽工業は、即座に「イムジン河」の発売を自粛しました。
2枚目のシングルが発売中止となった「フォーククルセダーズ」のメンバーは、そのままレコード会社の会議室に缶詰めになり、すぐに新しい曲を作るように指示されます。
アイデアも浮かばず途方に暮れていた時、加藤和彦が突然「『イムジン河』のテープを逆回ししてみようか」と言い出しました。
半信半疑でやってみたところ、流れたのは非常に美しいメロディーでした。
加藤和彦はその音符を拾って、わずか3時間足らずで新曲を作り上げました。
これに著名な詩人のサトウハチローが作詞して誕生したのが、第2枚目のシングル「悲しくてやりきれない」だったのです。
「フォーククルセダーズ」の意義と「イムジン河」のそれから
プロとしての活動期間はわずか7か月余りで解散した「フォーククルセダーズ」ですが、彼らが日本の音楽史に残した足跡は極めて大きいといえるでしょう。
それは、まず、メンバーが全員結成当初からプロになろうという気持ちを持っていなかったこと。
これは、見逃してはならない大きなポイントの1つです。
アマチュアの姿勢で、あくまでも音楽を楽しみたいという一心だけで音楽に向き合っていたことです。
売れるか売れないか?という雑念が入り込まなかった彼らは、その分自由な発想で曲作りが出来ました。
社会を風刺するような歌詞を作ったり、実験的な音つくりにも取り組めたのです。
好きな音楽を自由な発想で生み出していく―――ここから生まれ出たのが最初の大ヒット曲「帰って来たヨッパライ」です。
こうした彼らの試行錯誤は、コンサートツアーをやめてからのビートルズのアルバム作りの姿勢と似たところがあります。
そして、彼らが大学生であったこと。
「フォーククルセダーズ」の活動時期は、世界的にベトナム戦争や東西冷戦、人種問題などで社会が激しく揺れ動いた時期と重なっていました。
これは日本国内の情勢でも同様でした。
ちょうど、安保問題や沖縄返還などをめぐって、学生運動の嵐が日本国内で吹き荒れていた時に当たります。
「フォーククルセダーズ」の解散後、日本の音楽、とりわけフォークソングはメッセージ性の高いプロテストソングの様相を呈していきます。
そのシンガーの多くが、「フォーククルセダーズ」と同じく京都出身の大学生たちでした。
さて、お蔵入りしてしまった伝説の曲「イムジン河」ですが、南北の対立や日本の政治的な立場に翻弄され続けて長い年月公に歌われることはありませんでした。
「フォーククルセダーズ」の「イムジン河」が解禁されたのはやっと2002年のことです。
しかし、それでもなお、2005年に制作された映画「パッチギ!」の劇中歌としてこの曲が挿入されたとき、映画のプロモーション用にテレビ局で放送してもらいたいと申し入れた映画関係者たちは、各放送局から露骨に難色を示されたそうです。
1970年当時の過敏な国際情勢からはいくらか変化したとはいえ、まだまだ「イムジン河」をめぐる政治的かつ社会的な問題は解決していないのが現実です。
参考文献
① いま語るあの時あの歌 きたやまおさむ ザ・フォーククルセダーズから還暦まで 前田祥文 取材、文 2007年発行、アートデイズ出版
② 永遠のザ・フォーククルセダーズ~若い加藤和彦のように 田家秀樹著 2015年発行 ヤマハミュージックメディア
③ コブのない駱駝 北山修著 2016年発行 岩波現代文庫
④ 「イムジン河」物語 “封印された歌”の真実 喜多由浩著 2015
年発行 池書房
⑤ 少年Mのイムジン河 松山猛著 2002年発行 木楽舎社
この記事を書いた人

つばくろ(Tsubakuro)
京都生まれ、京都育ち、生粋の京都人です。
若い頃は京都よりも賑やかな東京や大阪に憧れを抱いていましたが、年を重ねるに従って少しづつ京都の良さが分かってきました。
このサイトでは、一見さんでは見落してしまう京都の食を巡る穴場スポットを紹介します。