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はじめに
上方ことばというと、関西以外の人々が何となく思い浮かべるのは関西弁か大阪弁、或いは京都弁になるでしょう。
また実際に、大阪や京都在住の我々も普段使っていることばについて、その地理的な特色あるいは歴史的な持ち味を改まって考える機会はあまりないのではないでしょうか。
漠然と双方は似ているなあと考えながらも、深いことはわかるようでわからない、そんな大阪人や京都人が大半ではないかと思います。
ここではそんな上方ことばの代表格である京ことばと船場ことばを比較対照しながら、それぞれの特徴や現在の有り様に触れていきます。
上方ことばとは一体どこのことば?
これは近畿地方全域で話されていることばを指していると考えてよかろうと思います。
さしずめ近畿方言と定義するのが適当でしょう。
そして近畿地方とはその昔大和朝廷が都を据えた地域のことで、当時の国名を挙げると山城、摂津、河内、和泉、大和の5国を指しています。
今でこそ京阪神と3つの都市をひとくくりにして近畿をとらえることが多いですが、神戸自体は幕末の時期まで小さな港にすぎませんでした。
江戸時時代の終わりに開港して外国人居留地ができたことから貿易の拠点となり、急速に発展した土地といえます。
従って古典落語の世界でも神戸を取り上げた噺は見られません。
廃藩置県によって兵庫県という地名が採用されましたが、もともとそれ以前この地域は播磨、摂津、但馬、淡路、丹波と呼ばれていました。
神戸方言の特徴で面白いのが、語尾を「~とぉ」と発音することです。
神戸方言は船場ことばに代表される摂津方言に属していますが、船場ことばでは「~してるか?」というのに対し神戸方言では「~しとぉか?」となり、明らかに船場ことばとは異なります。
神戸よりも西の播磨の地域でもこれは同様で、逆に神戸より東の西宮や尼崎などでは「~とぉ」という表現は用いられません。
洛中の地理
さて、ここからは京ことばを取り上げていきたいと思います。
まず京ことばという時いったいどこを指すのかについてですが、それは洛中、すなわち行政区画上での旧上京と旧下京(昭和4年にこの2つから中京が生まれた)で話されていることばを指します。
つまり上京、中京、下京を合わせた3区である洛中のことばを京ことばと呼びます。
地理的にいうと、北端が鞍馬口、東端が鴨川、西端が佐井西通り、南端が東海道線。
この4つの線で区切られた区画内を洛中と呼んでいます。
洛中のイラスト画像
この区域には阪急、京阪、嵐電、地下鉄、JRと5つの電車が乗り入れていますが、区域全体を地下鉄網だけで移動できる船場とは対照的です。
2020年の人口調査によると洛中の人口は以下の通り。
京都市全体 | 1,463,723 |
上京区 | 83,832 |
中京区 | 110,488 |
下京区 | 82,784 |
このように3区合わせてせいぜい28万弱ぐらいで、京都市全体の2割程度にすぎません。
また東端の四条河原町は飲食店が立ち並ぶ繫華街となっています。
確かに都市化は進んでいますが、それでも人口密度は日本全国平均の50倍。
気位の高い洛中人は今もなお、よそに移り住むことを潔しとしない傾向が伺えます。
道路と公共施設以外は、ほぼ町家と民家とマンションなどの集合住宅で占められているため、密集度が著しく高いのが特徴です。
冨野小路の町屋の写真画像
三条通の街並みの写真画像
京ことばの特色
以前にも別のコラムで紹介したことがある井上章一先生の著書「京都ぎらい」ですが、この本の内容は徹頭徹尾、洛中の悪口に終始しています。
井上先生は嵯峨の生まれであり、行政区画では右京区となって明らかに洛外出身者です。
この本の帯には「ええか君、嵯峨は京都と違うんやで‥‥」とあり、冒頭には「昔、その辺のお百姓さんがよう肥を汲みにきてはった」と嵯峨を馬鹿にされたエピソードが綴られています。
そうした体験をなめるうちに井上先生自身も、次第に嵯峨から西山を越えた亀岡を田舎者だと侮蔑するようになったと告白されているのですが、ことほど左様に地域性にこだわる中華思想は、洛中の見事な階層構造を形作っているのでしょう。
更にこれとは別に、洛中人のものの考え方を決定づけることとなった大きな要因がもう一つあります。
それは歴史とのかかわりです。
明治2年に天子様が東京にお移りになった。
それはちょっとした様子見でほんまは京の都に戻ってきはるつもりやった。
それがずるずると長引いてしもたんは些細な事情や。
その証拠にいまだに遷都の詔勅はあらへん。
御所は今でも京都にある。
代替わりのたびに天子様が京都に戻ってきはったらええのに、ということになる。
これは案外洛中人の本音であるといえましょう。
一方、こうした洛中人の気質に最も敏感なのが浪速人です。
浪速人はたびたびそれを落語のネタに用いました。
有名な「京のぶぶ漬け」の噺がそれです。
洛中人は、出す気もないのに客の帰り際に決まって「ぶぶ漬けでも食べとうくれやす。」と薦める。
ある時、これを聞くのにウンザリした浪速人が「今度こそ本当にぶぶ漬けを食べて帰ってやろう。」と決心して京都へ赴くというのが噺の筋立てになっています。
いつも通りに洛中人から、「何にもおへんけどぶぶ漬けでも食べてお帰りやしとくれやす。」といわれて、即座に浪速人は「おおきに。ほなよばれまっさ。」と答えてご馳走になるのです。
一杯目を食べ終えておかわりを要求しますが、生憎洛中人の家にはご飯が一杯分しかありませんでした。
一向におかわりの出てこないのにしびれを切らした浪速人が、お茶碗を突き出して「ええお茶碗ですなぁ。どこで買わはったんですか」というと、洛中人は空のお櫃を見せて、「へえ。このお櫃と一緒に向かいの荒物屋で。」と答えて噺は落ちになります。
この落語からもわかるように、浪速人には洛中人の中華思想が鼻につくのです。
それはさておき、現在最も京ことばの需要が高いのは花街においてでしょう。
日本全国、もっと広く言えば世界各国から訪れる観光客は花街を訪れて、お茶屋遊びをするとき舞妓や芸妓の使う京ことばを耳にして満足を覚えます。
舞妓の写真画像
しかし現在、生粋の京都人の中から舞妓になる女性がほとんどいないのもこれまた事実です。
舞妓の大半は地方で生まれ育ち、入洛して着物の着方や日本舞踊を学ぶのと同じように、京ことばをいわば第2言語として学習して身につけるのです。
ですからそういう面で、現代の京ことばはある意味、廓(くるわ)ことばになってしまったといっても差し支えないでしょう。
大淵幸治氏の「本当は怖い京ことば」という書籍には、洛中人の思考回路が細かく分析されており、そこから発せられる京ことばの実例が挙げられていてなかなか興味深い内容になっています。
本当は怖い京ことばのタイトルの写真
大渕氏は越中の生まれですが、幼少期より上七軒で育った経歴を持ちながらも、「あくまでも自分は本当の京都人ではない」との自覚に基づいて客観的に京ことばの生れ出る社会的背景を考察しています。
氏によれば、洛中人の思考論理は「受身的発想」が基本となっており、自分から表立って意思表示するのではなく、終始「よそさん」からこういわれたらこう切り返す、それも面と向かって反対するのではなくやんわりと持って回った言い方で「よそさん」に悟らせるという高等戦術を駆使するとのこと。
そして、それがわからない相手には「ことばの意味の分からんやっちゃ、しょうがおへん」と切って捨てる、と。
これは本当のところ、当たっているのではないでしょうか。
例えば何か断りたいようなことを頼まれた場合など、洛中人は「考えときます」とよく返事しますね。
これは洛中では「お断りします」の意味なのですが、このニュアンスがわからずにまともに受け取って、後日「あの件、考えてくれましたか?」などと聞こうものならたちまち「いうてることのわからんお人や」と呆れられて、最悪の場合それ以降付き合ってもらえなくなります。
また、「おうち、面白いお人どすなぁ」と面と向かっていわれる場合も同様ですね。
洛中人の「面白い人」というのは決してほめことばではありません。
これは「あんたのいうてることはようわからん」の意味で、もっと突っ込んでいえば「あんたとはようつきあわんわ」と宣告されたに等しいといっても過言ではありません。
洛中人同士が道で出会ってかわす日常会話。
「おや、お出かけどすか?」
「ちょっとそこまで」
「そらよろしおすなぁ」
何がいいたいのかさっぱりわかりませんが、これでちゃんと通じるのが京ことばです。
おばさん2人が背中を向けて会話している写真
船場の地理
船場はかつて東西の横堀、土佐堀、長堀の4つの堀に囲まれた地区を指しました。面積は洛中のわずか13分の1に過ぎません。
船場の区画の地図の写真
今から約100年前に西横堀と長堀が埋め立てられて地続きとなったことをきっかけに市内に工場が急増した結果、煤煙のために空気が悪化した事情から船場の大店の商人は、家族の住まいを市内なら帝塚山、市外なら阪神間の芦屋や伊丹へと移しました。
谷崎潤一郎の代表作「細雪」はそんな船場商人の4人姉妹の生活を描いた小説です。
谷崎潤一郎の写真
細雪の表紙の写真
この小説は、昭和10年代の上方を舞台に、船場の旧家・薪岡家の4人姉妹が本家の船場と分家のある清閑な住宅地の蘆屋で繰り広げるきらびやかな上流階級の暮らしを、上品な船場ことばで綴った小説です。
では、これから船場ことばを見ていきましょう。
船場ことば
まず注目したいことは、京ことばに関する書籍はおびただしい数があるのに対して、船場ことばを取り上げた本はごくわずかにすぎないという事実です。
その理由はどこにあるのでしょうか?
それは、京ことばは現在一種の観光資源になってしまっているが故です。
京都を訪れる観光客の多くにとって、花街の芸舞妓の話す雅な京ことばは非常に魅力的です。
いわば今日京ことばは、廓(くるわ)ことばになっているともいえるでしょう。
入洛する観光客が対象者なのですから、京ことばに触れる相手は不特定多数です。
これに対して船場ことばは、用い手は商人であり、またことばに触れる相手もやはり商いに携わる人に限られています。
こんな点1つだけを見ても、京ことばと船場ことばの間には大きな相違が見受けられることがわかります。
船場ことばに関する文献はごく少ないのですが、山田庄一氏著の「京なにわ 暮らし歳時記」という書籍は非常に興味深く参考になります。
京なにわ 暮らしの歳時記の表紙の写真
著者は大正14年船場の安土町生まれで、家は代々呉服屋を営んできたそうです。
著者の出生後間もなく、船場と島之内かいわいは様相が変わり始めたと記されています。
商家の主人とその家族は店だけを船場に残して、住まいを郊外に移してしまうのです。
やがて昭和20年の空襲によって大阪は焼け野原となり、戦後の復興期を経て町には高層建築が立ち並び、船場の夜間人口は減少の一途を辿ります。
従って著者によれば、上方落語で取り上げられる船場の商人や丁稚の暮らしはいずれも100年以上昔のことであると言います。
それを大前提にした上で、読んでいて印象深く残ったのは、船場の跡継ぎに関する記述でした。
古来、船場では娘に婿を取らせて跡を継がせる家が多かったそうです。
単に血のつながりだけを重視して長男に後を継がせた場合、その後継ぎに商才が欠けていた時は家運が傾きかねません。
その点、娘に婿を取らせるのであれば、じっくりと時間をかけて婿になる人物の人となりを検分できます。
そのようにして選んだ男に店を継がせる方が合理的だと、船場の商人は考えたと記されていました。
船場の商人のイラスト画像
さて同著の4章には「失われた船場ことば」として以下のような単語がリストアップされています。
その中からいくつか抜き出してみましょう。
(名詞 人物、人体、身の回り品)
おとがい(顎)、でぼちん(額)、しぶちん(けちんぼ)、ねそ(陰気)、おじゃみ(お手玉)かんしょやみ(潔癖症)、ねき(傍)はばかりさん(ご苦労さん)
(名詞 食べ物)
おむし(味噌)、おまん(饅頭)、おしたぢ(醬油)、おけそく(仏前に備える餅)
(動詞、形容詞、副詞)
なぜる(撫でる)、おます(あります、います)ずつない(苦しい、術ない)、こそばい(くすぐったい)、がらんど(空っぽ)、びびんちょ(汚い)、えんばんと(折あしく)
これらはいずれも今から100年以上前の船場でつかわれていたことばであると著者は述べていますが。洛中人であるコラム子はこれを見て「自分も使ったことがある」と思ったことばが結構たくさんありました。
例えば、しぶちん、がらんど、ずつない、びびんちょ、はばかりさんなど。すべてが死語というわけでもないと思います。
現在、往年の船場ことばをもっとも生き生きと伝えているのは上方落語と松竹新喜劇ではないかと、コラム子は考えています。
とりわけ、人間国宝であった桂米朝師匠の噺や喜劇役者・藤山寛美の狂言で用いられている船場ことばはいかにも上品でおっとりとした味わいがあり、往時の船場の有り様をしのぶことができます。
例えば、藤山寛美の当たり狂言の1つに「大阪嫌い物語」という出し物があります。
これは大正時代の船場の大店を舞台とした喜劇ですが、話の序盤で丁稚の1人がお使いを言付かって出かける際にこういいます。
大阪嫌い物語のDVDのパッケージ写真
「ほな、いて参じます。」
「行って参じます」というよりも「ほな、いて参じます」の方が雅な感がして心地よいものです。
これに対して主人は「いといなはい」といって丁稚を送り出します。
いかにも商売の町ならではのことばです。
また別な出し物の台詞にこんな例もあります。
「これは急いて急かんこっちゃようなことやけど‥‥」
頼みごとをする際に遠回しに急いでほしいことを伝える時に使われた台詞でした。
これまた商売の町・船場ならではのことばといえますね。
主人とその家族、更には番頭、手代、丁稚までもが同じ屋根の下で起居を共にしていた100年以上昔の、職住一体の船場ではこうしたやりとりが日常会話として成り立っていました。
残念ながら、船場ことばは現在では上方芸能の中にしか残されていません。
むすび
以上、簡単に京ことばと船場ことばの特色を述べてきましたが、両者の現在には著しい相違点があることがわかります。
その要因を作ったのが洛中と船場の歴史の歩みの違いだったといえるでしょう。
洛中では現在も人口密度が高く、ことばの話し手が厳然と存在するのに対して、船場では100年以上昔に商家の主人とその家族が住まいを郊外に移してしまったこと、更にその上船場は空襲で焦土となったことなどがその原因です。
今日、京ことばは芸舞妓に代表される観光資源的な側面も持ち合わせていますが、それでもことばの生まれるバックグラウンドたる洛中人の気質そのものは、昔も今もあまり変わっていません。
一方、船場ことばは現在すでに絶滅したに等しく、わずかに古典的な上方芸能にしか、その面影をとどめていないといえるのです。
参考文献
① 京阪方言 角谷賢一 龍谷紀要 第46号
② 「本当は怖い京ことば」 大渕幸治著 2022,リベラル社
③ 「米朝落語全集」 桂米朝 2013,創元社
④ 「細雪」 谷崎潤一郎著 1988,新潮文庫
⑤ 「京なにわ 暮らしの歳時記」 山田庄一著 2021,岩波書店
⑥ 「寛美 いつまでも大阪の」 木畑紀子著 1990,上方芸能出版センター
この記事を書いた人

つばくろ(Tsubakuro)
京都生まれ、京都育ち、生粋の京都人です。
若い頃は京都よりも賑やかな東京や大阪に憧れを抱いていましたが、年を重ねるに従って少しづつ京都の良さが分かってきました。
このサイトでは、一見さんでは見落してしまう京都の食を巡る穴場スポットを紹介します。